扇骨の歴史
比良の山奥に源を発し、朽木渓谷の名勝を刻み、東に流れてびわ湖に注ぐ安曇川、その流域に自生する竹を利用して始ったと伝えられる竹手工芸の”扇骨”の歴史は以外に古いのです。
その昔、京扇子の発祥地ともいわれる五条大橋川畔の御影堂に平家滅亡の後、平敦盛の室清照姫(またの名玉織姫)が剃髪して、蓮華院尼と称し扇子を作りはじめた頃、その用に祐寛上人(1190年ごろ)安曇川沿岸にマダケの造成をおこなったと伝えられている。
また、大陸との交易の開港地北陸と都を結ぶ要衝にあったのと、冬季大雪をもたらし、長い冬の間の農民の副業として、材料が少なくて加工手間を目的とした技術仕事としての、地理的、生活的条件から必然的に発展して来たと言えましょう。
徳川5代将軍、綱吉の頃、新旭町太田の清水宗源の子長谷川玄斉が、水防と扇子づくりのため、安曇川沿いに良質の竹を植えたと史実は伝っています。
その後、戸島忠兵衛が竹林に目をつけ水害、早害におそわれ、耕作面積の少ない農民の副業として扇骨業をはじめると共に、今まで京都の仲買人に利益をうばわれていたのを、自分が仲買人となって扇骨の販路開拓につとめたと伝えられています。その時音羽の御殿から下賜された提灯と箱が今なお同家に保存されています。
幕末の頃西万木に生れた、井保久吉は、名古屋より進んだ扇骨加工技術を学んで帰り、その甥、井保寿太郎が広く京都、大阪へ販路を開拓し、又扇子を遠く欧州諸国へ輸出し、扇骨産地との形態をととのえた。
業界では昭和47年扇業300年祭を開催し、先覚、先輩の偉業を顕彰すると共に産業の伝統についての決意を新たにしたいものです。
その昔、京扇子の発祥地ともいわれる五条大橋川畔の御影堂に平家滅亡の後、平敦盛の室清照姫(またの名玉織姫)が剃髪して、蓮華院尼と称し扇子を作りはじめた頃、その用に祐寛上人(1190年ごろ)安曇川沿岸にマダケの造成をおこなったと伝えられている。
また、大陸との交易の開港地北陸と都を結ぶ要衝にあったのと、冬季大雪をもたらし、長い冬の間の農民の副業として、材料が少なくて加工手間を目的とした技術仕事としての、地理的、生活的条件から必然的に発展して来たと言えましょう。
徳川5代将軍、綱吉の頃、新旭町太田の清水宗源の子長谷川玄斉が、水防と扇子づくりのため、安曇川沿いに良質の竹を植えたと史実は伝っています。
その後、戸島忠兵衛が竹林に目をつけ水害、早害におそわれ、耕作面積の少ない農民の副業として扇骨業をはじめると共に、今まで京都の仲買人に利益をうばわれていたのを、自分が仲買人となって扇骨の販路開拓につとめたと伝えられています。その時音羽の御殿から下賜された提灯と箱が今なお同家に保存されています。
幕末の頃西万木に生れた、井保久吉は、名古屋より進んだ扇骨加工技術を学んで帰り、その甥、井保寿太郎が広く京都、大阪へ販路を開拓し、又扇子を遠く欧州諸国へ輸出し、扇骨産地との形態をととのえた。
業界では昭和47年扇業300年祭を開催し、先覚、先輩の偉業を顕彰すると共に産業の伝統についての決意を新たにしたいものです。